寺山修司って?

「寺山修司」。
彼の名前は、誰もが一度は目にし耳にしたことがあるのではないでしょうか。
1935年に青森で生まれ、1983年に東京で亡くなるまでの間、彼は数多くの作品を生み出してきました。
俳句、短歌、詩、映画、演劇、写真…。

「寺山修司って知ってる?」…そう友人達に聞くと、こんな答えが返ってきました。

国語の教科書で短歌を読んだことがあるような・・・
うちのお母さん、寺山修司すきなんだって。
図書館で『寺山修司戯曲集』ってやつを見たことはある
「書を捨てよ、町へ出よう 」って寺山修司でしょ!

どんな一生を過ごしたのか。何を見、何を感じ、何を残していったのか。少しだけ覗いてみましょう。

1935年  青森県弘前市に生まれる。父は警察官。幼少期は父の転勤に伴って青森県内の転居を繰り返す。
1945年  青森大空襲で焼け出される。父は戦病死。
1948年  映画館を経営する親戚に引き取られ、青森市へ。母は九州へ働きに出る。
1951年  県立青森高校に入学。
1953年  全国学生俳句会議を組織。
1954年  全国レベルの俳句同人誌『牧羊神』創刊。
同年    早稲田大学教育学部国文学科に入学。川口市に下宿。母は立川で働く。
同年    『短歌研究』の「第二回作品五十首募集」に応募し、 「チェホフ祭」で第二回短歌研究新人賞受賞。
1955年  ネフローゼで入院。58年まで入院する。
1957年  『短歌研究』の編集長だった中井英夫の好意で、第一作品集『われに五月を』刊。
1959年  谷川俊太郎のすすめでラジオドラマ「中村一郎」を書き、民放祭大賞受賞。
1960年  戯曲「血は立ったまま眠っている」を劇団四季で上演。
1963年  九条映子(現・今日子)と結婚。
1969年  渋谷に天井桟敷館落成。カルメン・マキの「時には母のない子のように」を作詞。九条映子と離婚。
1971年  長篇映画「書を捨てよ、町へ出よう」公開。ナンシー国際演劇祭で「邪宗門」等を上演。
1974年  長篇映画 「田園に死す」で芸術祭奨励新人賞受賞。
1975年  市街劇「ノック」上演、新聞をにぎわす。
1978年  ヨーロッパ各都市、東京で「奴婢訓」上演。映画「草迷宮」を監督。
同年    「観客席」紀伊国屋ホールで初演。
1979年  肝硬変で1ヶ月入院。演劇や映画など体に障ることは控えるよう言われるが、様々な企画を提案。
1982年  長篇映画「さらば方舟」(「百年の孤独」を改題)を撮影。
1983年  肝硬変と腹膜炎で敗血症となり、亡くなる。

 

 

■母と修司
寺山修司の母・はつ は、彼にとってとても重要な存在であったようです。
幼い頃に父を亡くして以降、離れたり近付いたりを繰り返しつつも、彼の側には常に母の影がありました。
作品の中にも母を題材にとったものは多くあります。
しかし、修司は様々なフィクションを織り交ぜて度々違った書き方をするため、
はつはファンから「寺山さんはほんとうはどこで生まれたんですか?」と聞かれたりしたそうです。

■詩人・寺山修司
彼と親しかった谷川俊太郎によると「彼は非常に詩人と呼ばれたかった」そうです。
そして、次のように述べています。
「僕の詩人観からすると、彼は詩人と呼ぶのが一番ふさわしい男だったと思います。
(略) 詩人は一面では貴い存在なんだけれど、ある面では軽蔑すべき存在なんです。
(略)そうした意味で寺山は自分と同じように、詩人という種族に属してたと実感する。」 (『寺山修司の世界』)

修司の死後に出版された母・はつの著書『寺山修司のいる風景─母の蛍』には、このように書かれています。

浪岡では高屋医院という開業医にかかっていました。
ここのお宅に小学生と中学生のお嬢さんが二人いまして、
私が診察するあいだ連れて来た修ちゃんは、
このお嬢さんたちにいつもあそんでもらっていました。
修ちゃんはこの二人を、赤いおねえちゃんと青いお姉ちゃんと読んでいました。
院長先生がこれを見て、「修ちゃんは、なかなか詩人だね」と言われました。
これが、修ちゃんが詩人と言われた最初なのです。三歳でした。

■書物への執着
修司は、幼い頃から本を欲しがりました。
級友と書店に出かけては、難しげな本を選び出して読んでいた姿が記憶されています。
留守がちにしていた母が食事代として渡したお金まで本に使ってしまい、
級友達が食べ物を彼のもとへ持ち寄っていたというのだから驚きです。
晩年は、自宅のアパートの浴槽が書庫になっているほどで、
知人宅で風呂を借りていたのだそうです。

■舞台はどこだ、劇はどこだ
「ノック」は、東京都杉並一体が舞台となる市街劇でした。
チケットはなく、あるのは地図のみ。地図には行われる演目とその時間が書かれています。
普通の住宅や店舗も舞台とされ、その周辺 一帯が舞台になってしまうのです。
この劇は上演中に住民から抗議され、警察が介入するなどして新聞でも取り上げられました。
また、ドイツの街中に積み上げた自動車に火をつける野外劇を行なった際、
火を消そうとする消防には「劇中の火が消せるのは劇中の消防員だけだ」と言ったそうです。
さらには、他人の家にひとつキャベツを預けて帰ってくる、という劇もあります。
預けられたキャベツをめぐって、その家でドラマが始まってゆくという仕組みです。

こうして、観客の在り方や、事実と虚構の関係性について問い続けていたのです。

 


私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。
だが、だからといって墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば充分。

寺山修司は「言葉」に強いこだわりを持っていました。
再び谷川俊太郎の言葉を借りてみましょう。

「彼のなかに、意味ある言葉を書けばその通りに現実が動くというような思い込み、現実の軽視があるような気がする。
(略) 彼の中には言葉に対する、なんていうか、切羽詰った信頼とでもいうのか、とにかく言葉しかないんだという傾向、
あるいは覚悟といえるようなものがあった。」 (『寺山修司の世界』)

修司の残した言葉の中には〈名言〉とされるものが多くあります。
中・高時代にともに俳句を作っていた同志・京武久美は、
修司が「まさに言葉の魔術師であった」と思い返しています。
「いまでも、自分の好きな言葉を発見したときの、本からあげたよろこびの顔を忘れることはできない」(『寺山修司』)

 

寺山修司の作品は、彼の死後も老若男女に親しまれています。
作品だけでなく、彼の人となりもまたファンたちを惹きつけてやまないのでしょう。
ふいに出会った寺山修司の言葉を何かのきっかけとしている人も少なくありません。

今回、卒業公演の舵取りをする演出も寺山修司を愛している一人です。

独特の感性で稽古場に自分の世界を広げていく演出と、
そんな演出に困ったり、驚いたり、反抗したり、一緒に考えたり、ご飯を食べたりする23人。

皆さんと「観客席」でお会いできることを楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

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□参考 

このページの編集にあたり、以下の本を参考にさせていただきました。

小川太郎 『寺山修司 その知られざる青春─歌の源流をさぐって─』
寺山はつ 『寺山修司のいる風景─母の蛍』
太陽編集部 編 『寺山修司』
情況出版 『寺山修司の世界』
寺山修司東京研究会 『寺山修司の情熱の燃やし方─このままの自分でいいのか─』

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